市村准教授 座談会

音楽環境創造科設立時からプロジェクト4の専任教員を務め、15年間学生たちを助けてくださった市村作知雄准教授。
情に厚く、飾らない人柄でたくさんの人々に慕われながら、大学外でも様々な場面で活躍されてきました。本ページでは、来年定年退職される市村先生を囲んで行った、音楽環境創造科学生数名との座談会記録を公開しています。市村先生がこれまで歩んできた人生、芸術と社会のお話、学生たちへの思いを、先生らしい口調で赤裸々に語っていただき、とても和やかで中身の濃い座談会となりました。

《大学時代から卒業してしばらくの話》

市村:大学は早稲田の文学部ロシア文学科ってところを出てる。でも僕は、高校1年の頃から1日1冊と決めて物凄い量の本を読んでて。だから大学に入った時には翻訳されてるロシア文学はおおよそ読み尽くしていて、「こんなところ来るんじゃなかった」って思った。で、その時にはギリシャ哲学と物理と経済をやりたくなってた。 僕が大学に入った1969年はまさに学生運動の全盛期なわけで、大学はいつもストライキ。授業はなかったですね。だから卒業してからは「革命=労働者だろう」ということで、労働者になろうと思い立った。そこで、町工場を探して、電話して。そしたら「面接に来なさい」って言われて。行ったら「明日から来なさい」ってことで、町工場の溶接工になってしまったんですよ。(学生時代は「牛飼いでもやろうかな」と思って牧場で働いてたんだけどね。)で、町工場で何をやったかと言うと、スイッチを押す時の電気接点っていうのをくっつける仕事をしてたわけ。まぁ、それを半年くらいやって…「やっぱりこれは駄目だ」と思ったので、職業訓練校に行って溶接を習った。
学生:あ、やっぱり溶接なんですね。
市村:そりゃ「溶接に入っちゃったんだから、もう溶接しかないだろ」って思って。その技術を使って、町工場ではなくもっと大きい会社に入ろうとしたの。結局は山手線とか新幹線を作ってる会社に入って、東急の電車も作ったし…そういうのを6~7年やってたのかな。
学生:その間何か演劇みたいなことをやったりは?
市村:いや、その間は全く。本を読む暇もないし。6畳1間に2人とかの寮だったから、個人でいるのはトイレにいる時くらい。
学生:純粋に溶接工になりたかったんですか?
市村:いや、たまたまスポーツ新聞を見たら溶接工の募集が出てたから。でも、やってみたら溶接は溶接で面白くてさ。本当に手作業で、電車なんて1台ずつ手作業で組み立てていくのよ。プラモデルを作るようなもん。資格も結構取ったんだよ、アルミの溶接1級とかね。…(以下、アルミの溶接について熱く語る)…本当、大変な仕事なのよ。働いてる子たちは中学卒業して集団就職してきたような子ばっかり。でも、そういう子たちと1日お話できたのは良かったな。 で、7~8年経った頃に、「もう革命は起きないし、いいかな」と思って。大学時代の友達が札幌で学習塾をやってたから、「学習塾やりながら物書きでもやるか」ってことで、高校受験のための学習塾で全教科教えてた。その時代は中学校が最も荒れていた頃だったな。校内暴力のまっただ中で、中学校で停学になる子もいたくらい。
学生:ヤンキーが長ラン着てた時代ですか?
市村:そういうのもいたね。もう生徒たちは勝手に歩き回ってるし、全く黙らないしさ、授業なんてまず出来ない。そういう時代だったの。その塾はそういうヤンチャな子も頭の良い子も来ていいところだったから、大変だったのよ。 まぁそんなことをやりながら、「働かないで食える方法ないかな」って考えて。そこでひらめいたのが、失業保険。失業保険を貰っている期間に職業訓練校に行くとね、失業保険がその期間ずっと伸びると同時に、毎日数百円の手当が出るんですよ。だから約1年半くらい失業保険で暮らしてやったんだよね。(この辺は法的に認められてることなのよ。)訓練校もなかなか面白くて、大工、織物、印刷とか、いろんな業種のためのものがあった。
学生:それが何歳ぐらいですか?
市村:30ちょっと過ぎたくらいかね。その後フリーのライターをやったんだけれど、これが面白くない仕事なんだよ。それで「こんなのつまんねぇな」って思ってた頃、大学以来の友達がドイツに留学に行っていて。そいつが世界で有名なダンスグループ“山海塾”をドイツで見て、「面白いよ」って勧めてきてさ。ひょんなことから山海塾のメンバーに僕も会うことになったのよ。そしたらその時ちょうど山海塾の制作担当がいなくて、「なんとか手伝って」って言われてね。これが、演劇の世界に関わり始めたきっかけになった。

《演劇の世界に関わるようになってからの話》

市村:僕が山海塾でやったのはカンパニーマネジメントなんだけど、主に「作品を作る時にどうやってお金を集めるのか」っていうことを集中して考えてた。「こういう方法でお金集めよう」とかね。あとやっぱり難しいのはさ、「アーティストとどうやって付き合うか」ってことなんだよね。例えばアーティストに「これやりたい」って言われたけど、資金が足りなかった時。「無理です」って言うと「それを集めてくるのがお前の仕事だろ」って言われちゃうわけ。それに対しても答えなきゃいけない。 アーティストにとって何が一番必要かっていうと、作品を作るときのお金なわけ。相当なものを作ろうとすると相当お金がかかるんですよ。学生レベルの作品ならそんなにかからないけれど、作品1個作るなら大体マンション1個分かかる。数千万かかる。でも、3000万で作ったとしても500回公演したら1回6万くらいでしょ?何回公演できるかで割っていけばいいんだから、結果的には問題ないんだけどね。 で、1985年にはある事故が起きたのです。1人の団員がアメリカのツアーの公演中に死んじゃって、1年ぐらい活動休止に。いったん活動休止するのは大変なんですよ。山海塾は海外で、年に100回くらい公演をやってる。100回分のギャラってすごいわけよ。だからそれを建て直すのに2~3年かかると思ってたんだけれど、結局5年以上かかっちゃった。それも結構苦労したな。 それから、僕は山海塾ではマネジメントだけではなくて、全国の都市開発もやってたんだよ。山海塾って不思議なカンパニーでさ、専属のマネジメントを誰もやらないの。「マネジメントだけで暮らすのは面白くないよね」って感じのスタンスで。だから、全国津々浦々で都市開発会社の役員としての仕事もやったし、あるコンペでは「何haの土地を何に使うか」みたいなことを考えたりもした。僕は文化系に強かったから、そういうのでは負けたことがないよ。
学生:そういう案は、いきなり思い浮かぶのですか?
市村:うん、得意だったの。そういうのいくらでも思い浮かぶ。例えば、新宿パークタワービルの3階にホールが新しく建つ時、「何か企画を出せばお金になるみたいだよ」って話を聞いて。「そうかそうか」と思ってダンスの企画を出したんだよね。その企画で初めて「振付家をフィーチャーして呼ぼう」ということになったんだけど、それがまた大当たりだった。 ちなみに、ちょうどその時ホールの担当者だったのが、“芸術家と子どもたち”というNPOをやってる堤さん。堤さんは東京ガスの社員だったんだけれど、「アートをやりたい」「子ども向けのアートをやるから東京ガス辞める」って言い出して。「いやいやいや、東京ガスで偉くなってくれよ」とか言ったりして。でも「もう辞めちゃいました」とか言うからさ。それで“芸術家と子どもたち”を作って…。いいのかなぁ、東京ガスにいたほうがよかったんじゃないかなぁ(笑)

《藝大の教師をはじめてからの話》

市村:まぁそんな時に藝大の教師の話がきて、音環に来たわけだけれど。でもその時僕は、国際フェスティバルっていうのもやってたんだよね。 僕が山海塾に関わり始めて、3年後には結構上手くいっていたので、代わりの人に来てもらったんだよ。で、「じゃあね、頑張ってね」って山海塾を辞めて。その後は、まぁこれだけアートやってくれば大体儲かる方法も分かったし、事務所を買って「なんとかなるか」と思いながら遊んでたわけ。大体1年のうちの2ヶ月くらいは働いて、他は遊んでたっていう時代。パークタワーやったり、それなりに他のことはしてたから、全然お金には困らなかった。そんな中で「“東京国際芸術祭”の事務局長になってよ」っていう依頼があって。なんか本当に困ってそうだったからさ、なったわけですよ。 それは当時“東京国際舞台芸術フェスティバル”って言ってたんだけれど。それまでは隔年で開催していたのを、僕が事務局長になった1999年からは「隔年じゃあつまらない。テーマに継続性がない。毎年やろう」って言って、毎年開催になって。東京都も少しづつお金を出してくれるようになったんだけれど、向こうには「東京都は2年に1回ずつしか予算化されないから、予算が出ない年にフェスティバルをやってしまうと、予算がないのにフェスティバルが開催できてしまうのを証明することになる。だから毎年やるのであれば、東京都からお金を出すことはできない」という言い分があったのです。東京都は当時物凄い赤字で、7000万貰っていたのが5000万になり3500万になって、「次は2000万しか出せません」ってところまで来た。2000万だけ貰ってフェスティバルやるなんて潰れるだけだからさ、「もう無理だ。ならばここはむしろ綺麗さっぱり別れてやろう」と思って。
学生:で、1回目の喧嘩?
市村:そう、1回目の喧嘩。ちょうど2000年に“NPO法”が通って、NPOができるようになったわけよ。そんで、東京都やなんかに了承をとっつけて「実行委員会をNPO化します」って言って。「NPO化することは市村に一任する」っていうことをとりつけた。実は僕はさ、1985年にアメリカのニューヨークで既にNPO作ってんのよ。免税措置とかを全部持っているNPOね。

学生:それはどんなNPOなんですか?
市村:「山海塾がアメリカで凄いうけてるから、山海塾関係のNPOを作ろう」ってなって作ったNPO。山海塾のニューヨーク公演の契約書で、「誰が山海塾呼んでくれてるの?」っていう疑問に対して「Charitable Organization(慈善団体)」っていう答えが書かれててさ。慈善団体が山海塾呼ぶわけないじゃん?1回の公演で何百万もかかるような団体だよ?「なんでこんなこと書いてあるんだよ」って俺は思ったわけよ。そんなお金があるわけないじゃん。だから向こうのスタッフに「この表記は何なんだよ」って聞いたら、「これはNon Profit Organizationの意味だ」って言われて。こっちからしたら当時は「Non Profit Organizationって何?」っていう世界だったから、どんなシステムなのかを説明してもらってね。「それは凄い!日本には全くないシステムだ!」って思って、「よし、じゃあNPOをアメリカで作ろう!」となって、作った。まぁ、あんま上手くはいかないんだけど。
学生:なるほど…。そういう中で、人とのやりとりってどんな風に進めていくんですか?
市村:あのね、フェスティバルディレクターってね、プログラムだけ考えてるならまだ楽しいんだけれど。実際それは本当に部分的で、ほとんど政治家みたいな感じ。ディレクターなんていうシステムを作ってるけれど、そんなシステムは役所と合わないし、日本にはないわけよ。役所っていうのはみんなで会議して、たくさんのハンコを押して、「これで決まりました」ってなるわけだけれど。ディレクターはハンコなんかいらない決定だけに、やっぱり役所とは合わないんだよね。どっちがいいっていうことでもないけれど、僕はディレクター制でやった方がいいと思う。でも一方で、委員会が作られると、お年寄りの偉い先生たちが出てきてすっごく平凡になってしまう。「じゃあディレクターを誰が決めるのか」とか、そこが面倒くさい。東京都と話し合っていかなければいけないレベルにあるのは、そういうところ。まぁ、お金の話はね…日本の予算は単年度制だからさ。
学生:それは日本だけなんですか?
市村:えーっとね、海外の方が予算は大体約束されている。日本の場合は本当に分からなくて、「来年お金通りませんでした。終わり」みたいな感じ。
学生:政治が不安定ってことですか?
市村:いやぁ、知事が変われば何もかも変わるじゃないですか。だから僕は今回の都知事選を物凄く心配している。「誰がなるんだ」「一体どうなるんだ」ってね。で、ディレクター制になったらなったで、そのディレクターが東京都とちゃんと線を結ぶことが必要で、そういう理解をなくして舞台はできない。だからそういう人脈を作ったりするのに、物凄いエネルギーを使うわけだけれど。 …何を話してたんだっけ?
学生:先生の一生?
市村:あー、その辺のことはまだ微妙なところもたくさんあるから話せない。まぁ、話したくなったら話しましょう(笑) そうだ。以前、実行委員会でやってた企画を途中でNPOに変えたことがあるんだけれど。その時に、ある程度想像がついたことがあってね。それは何かっていうと…実行委員会というものは、決めたそのことしかできない。フェスティバルの実行委員会だったら、フェスティバルのことしかできない。でも、NPO化しちゃうとその制約が取れるから、なんでもできる。っていうこと。 だから、NPOを立ち上げた時に「廃校を探せ」っていう指令を出した。そうしてできたのが、“にしすがも創造舎”。でもこれがやっぱり、上手くいくかいかないかの本当の分かれ目なんだけれど。本当はこのにしすがも創造舎も、上手くいかなかった末の3つ目で。どうしても「体育館を劇場化したい」っていう思いがあってね。ほら、僕ハード好きだからさ(笑)
学生:すっごい好きですよね(笑)
市村:本当にハード好きだからさ、だってソフトなんてあるの当たり前じゃん。ソフトがなきゃこんな仕事やってないからさ。ソフトはいくらでもある。 で、体育館を劇場化しようと思ったんだけれど…それが大変で。まず体育館の屋根を改造したの。雨音で声が聞こえないから「よし、屋根を二重にしよう」ってなると1000万。さらに「空調入れよう」ってなると1500万。そんな感じで、どんどんお金がかかっていったわけよ。で、まぁ「借金をしよう」と。いろんなコネを使って借金をしたんだけれど。日本中のNPOで銀行から借金をした例が一例もなくて、その時は僕たちが初めてだった。だから銀行には「前例がありません。銀行はお金儲けのためにお金を貸すのであって、非営利団体の時点でダメです。」って言われて、本当に全然ダメだった。でもまぁ、凄く偉い人にちょっと助けを借りてですね…(笑)借りられたわけです。
学生:えー?
市村:偉い人とかと会った時に、「どうやったら仲良くなれるか」っていうのをやっぱり相当考えたわけよ。
学生:なるほど。どうやって仲良くなれたんですか?
市村:あのね、向こうにこちらと付き合うことで何らかのプラスがあると思われない限りは、ただただ頼むしかない。でもこれでは、関係はできません。ただ、僕はその時に既にアートとかダンスのことには詳しかったから、「これはこういう風にやった方がいいよ、あれはああいう風にやった方がいいよ」ぐらいのことは言えた。だから、アート界やダンス界に行くことについてちょっと話が聞きたいという人に対して「これはこうですよ、これはこうした方がいいですよ」っていうのを説明するようにした。やっぱり、向こうに「会えば何かある」って思わせるようにするには勉強しなきゃダメなんですよ。自分に何か持ってないと無理です。それがないと一方的に頼むだけの関係になっちゃうから、それは全く面白くない。で、僕の場合は、アート界については本当にいろんな本を読んでいたし、「日本でアートをどう支援するか」っていう初めての研究をしたのも僕だったし。トヨタ財団から資金をもらって、アートの支援のための基礎研究をやったんだけれど、それも僕が日本で初めて。NPOの研究も日本で僕が初めて。そういう関係のいろんなシンポジウムをやったのも僕が初めて。そういう何かがないと、やっぱり関係はただただ上下関係ができちゃうだけ。いろんな企業と付き合っても、ずっと付き合っていられるためには、「アイツと会えば何か得られる」っていう事実がないとダメ。
学生:やっぱり自分の知識も常に常に新しいものを知って行く努力をしないとダメですよね。
市村:うーん、僕の場合はね、まず本屋に行くんですよ。で、「この人と会いたいな」っていう人の本を買って、読んで、感想を書いてですね、「この本のこういうところに感銘を受けました。是非一度お目にかかりたい!」って手紙を…。
学生:えぇ〜!会えるんですかそれで!
市村:会えるんですね。
学生:嘘だー!
市村:大体、本を出す時の意識っていうのは分かってるからね。本を出して、何か反響が来れば当然嬉しいでしょ。反響って弱みに漬け込んでいるようなものなんですけれども。これは極めて有効なやり方です。大概の人に会えました。そういういろいろなことを考えて社会で生きていかないと。会社員やっているわけでもないし、自分の工夫次第。 まぁそんなこんなで今に至って…あまり至ってないんだけどさ。いろいろやってきて、長いですねこの世界も。3年に1回ずつ仕事を変えようかとも思っていたのに。本当、こんなに大学の先生長くやるっていう風には思ってなかった。

《プロジェクト4での話》

学生:さて、そんな経歴を持つ市村先生は、プロジェクト4で学生に対してどんなことをなさっているのですか?
市村:あのね、やっぱり「モノを作るとは何か」が分かればいいと思うので。それだけなんだけれど。 ここって不思議な学科でさ。日芸とかそういうところだったら、元々「役者になりたい」とか思って入って来るんだけれど…ここはそうじゃない。だから「プロの役者になりたい」「演出家になりたい」っていう人への対応もするし、「学生のうちだけやってみたい」っていう人にも対応する、という教育をせざるを得ないんですよ。「プロになりたい人は無理ですよ」っていうのは言いたくないから、そういう人が来た時にはそれ用の対応を。(実際、プロになりたい人は相当減っているんだけれど。)「プロになる」っていうのはチャンスがものを言うからさ。いろいろなチャンスがないとプロにはなれないし、大学にいる4年間ではなれません。4年間では短すぎて絶対になれません。これは確か。野田秀樹だって8年間東大だし、まぁそのくらいかかる。大体、「4年間でなる」って言っても大学なんて4年間とか全然ないから。2年半くらいしかないんだから、実質さ。2年半でアーティストになんかなれません。じゃあ、ってことで大学院行っちゃう人も多いけれど。まぁ、その中でもプロになりたい人にはね、出来る限りチャンスが来るようにしてあげてるよ。(やってることは相当えこひいきなんだけれど。)何か困ったことや行き詰ったことがあれば個々に相談に来ればいいだけなので、普段の授業ではちょっと興味があることを話したり、面白い映像が見られればそれでいいんじゃないのかなと僕は思ってます。 そんなわけでこの学科は本当にマンツーマン状態なので、1人が1人のことを分かりすぎる。早稲田なんかに行くともうマンモスだからさ、どの授業も(学生が)100人以上いるみたいな状態で。そうなるともう1人1人なんて関係ないわけさ。実際は、そうやって100人くらいの人でやってくれた方が全然楽よ。こっちはただ喋ってればいいわけだし。対してこの学科は「こんなにもマンツーマン対応しているものか!」っていうくらい1人1人に対応しちゃってて、何とも言えない不思議なところ。
学生:それはいいことだと思いますか?
市村:えー、分かんないんだよね、それが。過保護って言えばめちゃくちゃ過保護!もうほぼ「手取り足取りやります!」みたいな感じ。今は長島確さんと一緒にプロ4を見ていますけれど…あの、もう贅沢極まりないというか、「これだけの人数に対して2人!?」みたいな。とんでもないわけ、本当のこと言うと(笑)そういう意味で、過保護になりすぎているっていう思いがあって。もう論文書くにしても何にしても本当に手取り足取りでさ、「でなきゃこうやりなさい!」みたいな。僕の大学時代はそんな指導もないからさ、「勝手に書け!」みたいな感じだったけれど。まぁ「物凄く優遇されている」と言えばされているけれど、その分「自立できるのか」っていう問題はある。これだけモラトリアムが増えちゃうのは、過保護のせいなのかなって気がしないでもない。どうなのかな、どっちがいいかな…。分かりませんねぇ。 でもまぁ、ゴマをするわけじゃないんだけれど、学生たちのことは割と面白いと思っていて。何が面白いかっていうと、この学校の人たちは子どもの頃からアートの素養があるわけ。昔から楽器いじってたり、ピアノが弾けたり、そういう人がかなり多いよね。そうやって子供の頃からアートに接してるっていうことは相当プラスに働いてるようで、他の学校の人だったらもっと時間がかかるのに、ここの学生たちは変化のスピードがやっぱり速いと思う。だから、面白いと言えば面白い。突然変身遂げるしさ。プロ4なんて、もともと演劇やダンスをやってきた人の方が少なくて、全くやっていない人も多いわけ。でも、結構それなりの面白さや素養もある。ここに入ってくる人ってさ、高校時代は変人の部類に入っていた、みたいな人が多いんだと思う。だから、大学に入ってそれが返って伸びるんだろうね。 あとは…普通に就職するならばこの大学に入るのは間違いなわけ。だから、その辺で多少の覚悟がついているんだろうね。普通に就職したい人はこの大学来ちゃダメよ。国立だしそのブランドに釣られて受けるっていう人もまぁいるけれど、でも就職とかそういうことを考えたら、そうじゃない。この大学は難しいんですよ。「お前は何のためにやるんだ?」っていう問いが、いつもナイフで突きつけられているようなもんだからさ。「お前はどう生きるんだ?」みたいにいつもいつも問われている。それは大変難しいけれど、逆に言えば相当プラスに働いていると思う。

《藝大退職後の話》

学生:藝大の先生を辞めたら何をするのか、聞きたいです。 市村:うーんと、本当のことを言うと、辞めると言っても今は“F/T”のディレクターっていう肩書きを持っているし、“アートネットワークジャパン”の会長という肩書きも持っているし。もうこれで時間はほぼ埋まっている。 今趣味に走っているのはね、農業。畑。トマトを育てています。豊作です。 学生:豊作ですか! 市村:うん。毎朝早く起きてですね、畑仕事をしております。 学生:それはプランターに植えて? 市村:いや、庭を畑に変えて。 学生:そっちを本格的にすることはないんですか? 市村:えっとね、「これならやってもいいかな」っていうことが1つあって。都会で農業がしたいんだよ。「駐車場にコンテナ置けばいいかな?」と思ってて。 学生:駐車場にコンテナ…とは全然想像がつかないのですが、どういうことですか? 市村:コンテナに水耕栽培の畑のキットが全部入っているわけ。野菜の値段って都会は高いけど、田舎に行くと安いでしょ。あれは何が違うのかっていうと、運送費。だから、運送費がなくなれば野菜は安いんだよ。 僕は、エネルギーって全て分散型になると思ってる。1箇所の大きな発電所でエネルギーを作り出すんじゃなくて、各個別に作り出す方がいいし、あるコミュニティの中に畑を作って野菜は自給自足という体制を作った方が面白い。 僕は震災後に何を研究したかって、野菜の作り方。研究の結果、青い光と赤い光があれば…つまりLEDを使えば、倍のスピードでもっと大きく育てることができるってことはもう分かってる。都会ってさ、小さい場所はいくらでも空いてるんだよ。どこにでもあるよ、コンテナ置けるくらいの場所なんか。この学校にだっていっぱいある。だからそこで農業やればいいかなって。僕が社長なら作っちゃいます。社長じゃないけど(笑)それで「この地域の野菜供給しますよ」って言ってさ、熊倉先生と一緒に半農半芸をやろうって話していたのよ。 学生:そこにつながるんですか(笑) 市村:音環のキャンパスが取手だった頃は取手でやろうと思ったんだけれど、放射能とかの問題でできなかったの。だからもう発想変えて、むしろ都会で作っちゃおうかと。その方が面白いし、田舎に行ってわざわざ作るよりは自分の住んでる場所で作った方がいいんじゃないかと。 …そんな感じでですね、出来ればちょっとやりたいとは思っていて。まぁやるためには補助金とかいろいろいるところが出てくるんだけれど。とりあえず今は、やる暇がないね。 《「新しい人」の話》 学生:とりあえず教員退職したら休んでくださいよ。先生は、生涯現役なんですか?
市村:うーん、引退の目処は全然ついてない。舞台芸術ってさ、実は数人の制作者で成立しちゃってると思うの。で、その数人がここ何十年も同じ数人なの。代われてないの。それは僕なんかが代わらないから、代われないからいけないのか。何となくこの頃思ってるのは、「代わりたいんだけど代われない」っていうこと。だから逆に、「人材を作り出す」っていうことに関しては失敗してるのかもしれない。 でも、2016年のF/Tの標語は「境界を越えて新しい人へ」。この、「“新しい人”って誰なんですか?」っていうのが問題なの。「今回で、我々が考えているような人たちではない人たちが現れるでしょう」って意味なんだけれど。そういう人たちは、もうそこまで来ている。もっと言うならば、そういう人たちの方が多数を占めているんだけれど、社会のパワーからもポストからも取り残されている。例えば、若い人たち。人数は相当の多い。でもパワーもポストも得てない。「じゃあどうするの、その人たちは?」ってことが問題なんです。
学生:新しい人たち、の定義はあるんですか?
市村:あります。1つは、自分の父親ですら戦争を体験していなくて、普段の会話に戦争が一切現れない世代。もう1つが、この世界が変わった時…つまりベルリンの壁が崩壊した時に生まれていないか、物心がついてない世代。これは何を意味してるかっていうと、「その人たちにとって世界はどう見えてるのか」が分からないということ。僕なんかの世代には、対立の構造で世界が見えている。資本主義と社会主義が対立しているという構造のもとに世界が見えていたわけだけれど、今ではそういうのがなくなってしまっている。じゃあ、そういうものを経験していない、体験していない若い人たちには世界はどう見えているのか。ずっと広がっている、何の境目もない社会が見えているんじゃないか。我々は残念なことに、それをまだ体験していないんだけれど。 この世代のもう1つ特徴は、ITとかそういったものが物心ついた時からもうあるということ。そういう人たちで交流ができてしまっているので、国とかいう概念が成立しなくなってきている。じゃあ、対立するものが社会にないならば、グラデーションだけの世界ができてきていて、そういう世界が見えているんじゃないかなと僕は思っていて。 …今のところ、ここまでしか辿り着いていない。そこから先、その人たちが何をするのかということについてはまだ辿り着いていません。今分かっているのは、その世代は古い世代と全く違った世界の見え方をしているはずだ。でもその人たちに見えている世界はグラデーションだけでできている世界で、1つ1つの対立する囲いがない世界なんじゃないかっていうところまで。その人たちは残念なことにまだパワーもポストも得ていない。社会的影響力は非常に少ない。でも、ここから20年の間にその人たちはパワーとポストを持つわけだから。その時世界が変わるんだけど、どう変わるのかは分かりません。その人たちが都知事に立候補したり首相になったりして、どういう傾向を持つのかはまだ分からない。
学生:F/Tは、割と若者に向けて発信しているのですか?
市村:もちろん!「年寄りはいらない」…と言いたいんだけれど、そんなことはない。年寄りも大事です。 まぁそういう世代間格差っていうのか、境界線が世代の間でできているような気がしていて。それは、韓国に行った時も思ったんだよね。僕なんかが子供の頃は、韓国への差別意識ってものすごい勢いで植え付けられてるわけ。「アイツらは犬ころだ」とか「韓国人はまともな日本語を喋れない」とか、そんな形でさ。だから僕なんかの世代は、韓国人と関わる時には「そういう気持ちを捨てる」という過程を1つ経なきゃいけないんだよ。「ちゃんと人間同士平等に付き合うことが必要なんです」っていう過程をね。でも、今の人たちはそんなことする必要はない。そのままストレートに付き合えちゃう。そういう風になると、また状況は変わってくる。 現時点では、中国とか韓国との交流って非常に古い世代の価値観でできてるけれど、今の若い世代は中国の若者でさえ戦争は遥かに遠いわけで。だからそんな世代がイニシアチブを握った時、関係は変わっていくって思ってる。…けれど、あと20年かかるかな。僕は生きてるでしょうか。分かりませんね。 まぁ、そのくらいのところまでF/Tのコンセプトは考えてありまして、「新しい人」を定義しました。まぁいろんな事考えてるんだけどさ、よく分かりません。フェスティバルディレクターって、考え続けなきゃダメだからさ。考える人が現れたら代わりますよ。